頭の中がぐるぐるする。
 あれだ。小さい頃、回るジャングルジムみたいな公園の遊具で目が回った時と同じだ。周りのもの全てが回っているような、そんな感じ。地面までもが動いているような不思議で不愉快な感覚。

(まさか地震? 日本って地震多いよね。さすが太平洋環状火山帯にあるだけあるなあ。震源地は真下です。……なーんて……)
 そこまで考えて、凛華はそんなわけがないとその考えを却下した。
 この気持ち悪さは地震のせいなどではない。明らかに先ほどのアルコールのせいだ。
 飲酒をしたことがなかった凛華は、考え事をしてしまったせいで余計具合が悪くなった。ジェットコースターに何度も乗るより気持ち悪い。
(吐きそ……う……)
 けれど国王の前で粗相をするわけにはいかない。

 片手で口元を押さえつつ、凛華は声を出そうと唇を動かした。
「ベ、ル……」
 とぎれがちに小さく言った声が近くに来ていたロシオルに聞こえたらしい。
 今にも吐きそうな彼女の表情を見て、金髪の騎士は少々慌てて妹を呼んだ。
 すぐさまベルが金髪を揺らして駆け寄ってくる。そして主の白い顔に目を見開いた。
「リンカ……っ! どうなさいました!? 真っ青ですよ!?」
 ベルが凛華の腕をそっと掴んで、心配そうに尋ねる。
 ふらふらと彼女はベルに寄りかかった。凛華より少し背の低いベルは、頭を自分の肩に預けた主を支えようと、足に力を入れなければならない。
 地面がぐるぐると回っているような感覚に、凛華の足下はおぼつかない。たった一口だけにもかかわらず、アルコールは彼女にとってはとても強力だった。
「ベル……。気持ち悪い。吐きそうぅ……」
 ついには凛華はその場にうずくまってしまった。
 うずくまってはみたものの、それでも地面の揺れと気持ち悪さに変化はなかった。

「陛下! リンカに何を飲ませたのですっ!?」
 ベルがセシアにものすごい剣幕で言う。
 忠誠心の高い軍人であるロシオルは妹の言動に驚き彼女を落ち着かせようとしたが、普段の穏やかな気性はどこへいったのか、ベルは最後まで言い切り、そして鋭い瞳で国王を睨んでいた。さすがはアルフィーユきっての武人であるロシオルの妹だけあって、他人を睨みつけるその姿は迫力がある。

「これ? ああ……酒だ」
 グラスに入っていた液体がアルコールであるのを確認して、セシアは今更のように驚いた。
 本当に知らなかったのだ。まさかアルコールだったとは。フェルレイナの飲み物用にと置かれていた盆の上から選んだのだから、彼女の口に合うようにアルコールは含まれていない筈だった。おそらく用意した誰かが間違えたのだろう。
 フェルレイナはアルコールが苦手ではあるが飲めないことはないのでとがめがいくことはないだろうが。

「「「へ、陛下……?」」」

 ベルとロイアとロシオルと、そして近くにいた騎士たちまでがセシアを見た。フェルレイナでさえ、いつもは嬉しそうに見つめているのに、今は焦げ茶色のその瞳を見開いて義兄を見ている。
 その場のセシアと凛華以外の人間の心の中を表すとしたら次のようになるのだろう。

 もしかして……。
 陛下、酔っていらっしゃいますか?

 当たり前である。
 普段は冷静沈着で何事も苦労せずやってのける完璧とも言える国王が、戦争からこの国を救うとされている「異世界の少女」に知らずにアルコールを飲ませたなど、信じろという方が難しいというものだ。



「リンカ大丈夫ですか!? 吐きそうですか?」
 しゃがみ込んでしまった凛華の顔を覗き込んでベルが尋ねる。
 彼女の不調の理由は分かった。もうセシアに訊くことはない。
 凛華はしばらく何も答えられないようだったが、時間をあけてやっと聞き取れるほどの声を出した。弱々しいその声は爽快に笑っていた時の彼女とは似ても似つかなかった。それがまたベルの心配を煽る。
「いやぁ……吐くと余計気持ち悪いぃ……」
 だって、吐いた後の何とも言えない気持ち悪さは我慢ならないのだ。口を濯いでもあの気持ち悪さはなくならない。吐くくらいならこのまま倒れてしまった方がましだと思った。
 ベルが困り果て、おろおろとする。確かに凛華の気持ちも分からないでもないが、それならばどうしたらいいのか。分からない。彼女付きの侍女責任者ともあろう者が慌てるとは言語道断なのだが、とにかく今のベルは慌てていた。

「ベル。リンカの部屋は塔の最上階だったな?」
 ロシオルが慌てふためくベルに尋ねた。
 強く確認するようなその呼びかけに、はっと我に返り、落ち着きを取り戻したベルが答える。
「え、ええ」
「リンカ。ちょっと悪い」
 ロシオルがしゃがみ込んだままの凛華をそっと抱え上げた。
 お姫様抱っこと彼女が表現する抱え方である。アルフィーユに来てから何かとこういう抱かれ方をするなあと、気持ち悪いながらもそんなことを考えた凛華だった。

 腕の中の小さな少女は白い顔で浅く息をしている。余程気持ち悪いのだろう。
 ロシオルは仕事上、アルコールにはそこはかとなく強いのでその気分は分からなかったが、初めて乗馬した時の浮揚感を思い出してそれに似たものだろうと納得した。
「陛下、御前を失礼します。ベル、医務室へ寄って酔いさましと水の用意を」
 てきぱきと彼らしく妹に指示を出したロシオルは、凛華の体重をものともせずすたすたと歩き始めた。周りの騎士や紳士淑女が視線を集めてくるがそんなものは無視だ。
「は、はい。陛下、失礼致します。先ほどの非礼は後々お叱りを頂きますので」
 いくら主を思ってのこととは言え、先ほどのあれは不敬罪に値する。
 もしかするとかなりの罰が待っているかもしれないのだ。
 けれど今は彼女が気になる。ベルは叱責を先送りにして欲しいと、頭を下げたのだった。

「いや、私が悪かった」
 どれほどの罰かは分からないがそれでもきちんと受けようと思っていた真面目なベルは驚く。
 一介の女官の言葉など無視できる筈の彼は、彼女の言葉が正しいと言い、そして彼女に対する叱責はないと告げた。
 この場で戸惑っているわけにはいかず、ベルはセシアと、そしてその隣にいたフェルレイナに無礼にならない程度に手早く挨拶を済ませ、くるりときびすを返した。

 本来ならば宮廷女官は慌ただしく走るなどしてはならないのだが、今は仕方ない。大広間から抜け出たベルは、早足から駆け足へと変えて急いだ。
 この広間から医務室へ寄って主の部屋まで行くには距離がある。
 兄は鍛えているからだろう、真っ直ぐに主の部屋へ向かったはずの後ろ姿はもう見えなかった。急がなくてはならない。


***


 一時は突然の事に騒然としていた大広間も、しばらくするとまた穏やかに談笑が始まった。
 こういう所が王宮らしい。いつでもそこは落ち着きとさざめきに満ちている。

「お義兄さま……最初にお酒だって言わないと………」

 フェルレイナが少々呆れながら義兄に言う。
 つい先ほどの一件が未だに信じられなかった。普段は何に対しても迷いというものを見せず、一つ一つ積み木を重ねていくかのように物事を完璧に成し遂げる兄が、あんな失敗をするとは。
「リンカは……飲めなかったのか」
 この国では大抵の人は酒を飲むことができる。酒を飲むことにとりわけ規制がなく、慣れているからだ。
 だからたいていこのような社交の場では酒が振る舞われる。フェルレイナのように予め苦手であることを周りの者が知っていれば酒は渡されないが、知らなければ普通は他の人々と同じように酒が振る舞われるのである。
 まさかあの少女が酒を飲めないとは思っていなかった上に、自分が渡したのが酒だったことにも気付かなかったセシアは素直に反省した。
 あの侍女に怒鳴られるのも当然だ。
 最初にアルコールが大丈夫なのかどうかも確かめなかった自分に非がある。
 疲れていたのだろうか。
 そんなことも判断できなくなるなど、失態だ。
「わたしだってそんなに飲めません、お酒は」
「……悪いことをしたな……」
 銀色の髪を掻き上げてふぅっと息をつく。その憂いの表情に広間の何人のご婦人方が見とれたことか。顔立ちの整っている国王陛下は憂いの表情もまたよく似合う。
 セシアは彼女に謝りに行こうかと思ったが、この大広間を国王が簡単に退出するわけにはいかず、もう一つため息を漏らしてテラスの方を見た。

 つまらない。
 政治の匂いが漂うこの夜会はあまり好きになれない。
 本当は自分が彼女を部屋に連れ帰してやりたかった。自分の責任は自分で果たすべきであったのだ。
 明日逢うことができたら謝ろう、と深く反省する少しばかり情けないアルフィーユ国王だった。


***


「リンカ。これをお飲み下さい」

 凛華はロシオルに抱え上げられたまま部屋まで連れて行ってもらい、柔らかい寝台に降ろされてやっとほっと息を漏らした。
 それからベルに手渡された温かい飲み物をゆっくり飲む。薬なのだそうだ。
「少しずつお飲み下さいね。むせてしまいますから」
 確かに何杯でも飲みたくなるような味ではなく苦かったので、ベルに言われなくとも凛華はゆっくりとそれを嚥下した。
 もう気持ち悪くない。
 ふぅっと息をついて、凛華は傍にいるベルとロシオルを見た。
「ありがとうベル、ロシオルさん。……もう、お酒は飲みたくないな」
 こりごり、という顔で凛華が笑った。
 ベルがくすりと笑う。ロシオルも肩の力が抜けたのかふっと笑っていた。
 蒼白な顔は既にもう赤みを取り戻している。やはりこういう風に笑っている方がいいなとベルは思った。
「あ。ロシオルさん重くありませんでしたか? ……ごめんなさい、大広間からこの部屋まで……」
 大広間のある場所から、凛華の部屋があるこの星見の塔までは結構な距離がある。しかも、長い螺旋らせん状の階段まであるのだ。
 標準体重には大分及ばないとは言ってもそれなりに重さはある。ああいった風に抱き上げられると自分の体重が分かってしまいそうで少し恥ずかしかった。
「いや……食事を摂ってないのかと思うくらい軽かった。ちゃんと食べろよ」
 離れた場所にいるロシオルが眉間に軽く皺を寄せて言う。この真面目な騎士はおそらく凛華の部屋に入ったことをためらっているのだろう。どこまでも生真面目なのだ。
「……食べてます」
 凛華が寝台に仰向けに寝転んだまま苦笑した。
 ちゃんと毎日三食、食べていたのに。きっとぽっちゃりと太ることがないのは……今の食生活のせいではない。父や祖父が亡くなった後、あまりまともに食事をしなかったせいだ。


「リンカ、もうお休み下さいませ。夜更かしはお体に悪いですよ」
 ベルにそう言われてチェストに置いてあった腕時計を見た。
 その表示は午前三時。ここに来た時が十九時で、その時の周囲が昼くらいだったことを考えると、アルフィーユでは今二十二時くらいだろう。夜更かしといった時間ではない気もするが、この際言うことを聞いておいた方がよさそうなのでやめた。
 それに、凛華の生活と比較すれば今は午前三時なのである。……どうりで眠気が襲いかかってくる筈だ。
「うん。ベル、ロシオルさん……お休みなさい」
「お休み。良い夢を」
「お休みなさいませ。リンカ、ドレスはそちらに置いていて下さればわたしが明日直しますので」
「はーい」
 少しあくびまじりに言って、凛華は二人に手を振る。
 カナルツ兄妹は静かに部屋を出て行った。コツコツ、と二種類の足音がだんだんと遠ざかっていく。

 広い部屋に、彼女は一人になった。


 寝台から体を起こし、緩慢な動きでそこから降りて立つ。
 そのまま寝てしまいたかったが、さすがにドレスのまま寝る訳にはいかない。ものすごく寝にくそうだ。寝る時は普通のハーフパンツやTシャツの方が良い。
(あ……時計ちゃんと合わせておかないとなあ……。それと、まだここに来て二日目……なんだよね……)
 もう随分と時間が経った気がする。
 凛華は、ベルが置いていった何とも表現しがたい寝具を見て、またしばらく呆然とし開き直ってそれに着替えた。理想のハーフパンツとTシャツは諦めることにしよう。
 ドレスをきちんと畳んでベルに言われた通りチェストに置く。
 自分の制服は畳んでチェストに仕舞ってある。……皺になってしまうかもしれないけれど。


「…………」
 高い寝台の天井を眺めながらほぅっと息をつく。
 決して自分の部屋ではありえない天井。
 いつもは壁にかけてあるコルクボートに貼られた写真を見てお休みなさいと言うのだが。この部屋は自分の部屋ではないのだ。
 生まれて半年も経っていないような自分を抱きかかえた母親とその隣で笑っている父親の写真は、ここにはない。

 確か鞄の中の手帳に、別の写真を挟んであった気がするが、眠気には勝てなかった。
 お休みなさいを言えないなら、朝になっておはようと言おう。

(起きてても仕方ないしもう寝よ……。考え事は明日の朝にし……て……)


 最後まで考え終わらない内に、凛華は寝息を立て始めた。
 長い長い、一日だった。