セシアに案内されたあの部屋も広かった。
 ……が、この広間はそれどころではない。

 端から端まで本気で走ったら何秒かかるのだろう。
 短距離のなかなかの好記録を持っていたりする凛華はそう思ったが、集まる視線に居心地が悪くなり、助けを求めるように傍らに立つベルに視線をやった。
 ざわざわと、小さいのだろうが、そのざわめきすらひどくうるさく聞こえる。広間が広いので反響はあまりしない筈なのに。

「ちょ、ベル……。帰りたい……」
 今すぐ引き返してこのドレスを脱ぎたかった。この際もう裸でも何でも良い。そんなことさえ考え始めた。
「大丈夫です! 堂々としていらっしゃったらよろしいのですわ。ほら、そんな泣きそうなお顔をなさっちゃ駄目ですよ。それでは別の意味で視線を集めてしまいます」
 潤み始めた漆黒の瞳を見て、ベルがやんわりと言う。
 微笑みながらもベルのその台詞にはやたらと熱が籠もっていた。

 確かに涙など浮かべてしまえば、広間中の視線を集めてしまうだろう。
 遠目にも分かる華奢な凛華。そして、彼女の滑らかな黒髪は驚くほど人目をひく。そんな中で瞳を潤ませるなど、広間の男性にとっては刺激的すぎるのではないだろうか。

「堂々となんて……」
 大広間は彼女に好奇の視線を寄せる人でいっぱいだ。所々で、紳士淑女が気ままに輪を作って談笑している。……が、その彼らも何か珍しいものを見るかのようにちらちらと視線を流してくる。
 髪を降ろしておけばよかったと凛華は思った。そうすれば髪で顔を隠せる。自分でまとめてしまった上、いきなりここで髪をほどきはじめたら余計に目立ってしまうのは明らかだったのでやめた。
 その代わりに視線を避けるようにさり気なく俯く。要は自分が視線を集めなければいいのだ。なるべく目立たないようにしなければ。


 俯きがちにそっと周りを伺っていると見知った顔があった。
 いたたまれなくて下げていた顔をぱっと上げる。
 昔、遊園地かどこかで迷ってしまった時に、大勢の知らない人の中から父親を見つけ出すことができた時と同じ気持ちを味わった。
「あ、ロシオルさんだ」
 広間にいる人たちは、ほとんどが茶色がかった髪色をしていた。
 その中で金髪は少し目立つ。それに彼は周りの人より少し背が高かったので、見つけるのに苦労はしなかった。
「兄をご存じなのですか?」
 ベルが少し驚いた声で訊いた。その質問に同じく凛華も驚く。
 兄。兄……兄?
 つまり。
 あの堅い話し方をしていた金髪の男性(ついでに追いかけられたりもした──凛華が逃げたからなのだが)と、このにこにこと微笑むのがとても似合う侍女は……兄妹。
「きょ、兄妹なの? ……ああ、本当だー。ベルと同じ瞳の色」
 そう言えばベルと同じ金髪で赤銅色の瞳だった。
 ベルが先ほど彼女の兄は騎士だと言っていたから、ロシオルは騎士なのだ。ロシオルの隣にいる男性も、そう言えば追いかけられた時に見たような気がする。

 凛華は訳が分からないままに馬車に乗っていたので、あの騎士の髪の色くらいにしか注意を払えなかったのだが、よく見ると彼はベルと同じ色の瞳をしていた。視線が鋭いのでベルのような柔らかさはあまり感じられなかったが。
 そのロシオルが、妹に気付いて小さく手を振る。次いで凛華に気付いて胸に手をあて、軽く頭を下げた。彼の隣にいた騎士もこちらを向き、胸に手をあてて丁寧に頭を下げた。これが騎士風の挨拶なのだろうか。
 慌てて凛華もお辞儀を返し、ベルは服の裾を軽く持ち上げてふわりと微笑んだ。

「リンカ、あちらに参りません?」
 視線でロシオルたちがいる方を示し、ベルが凛華にそう尋ねた。
 大広間の入り口近くにいるよりは、もう少し奥へ行った方が多量の視線から逃れられる。しかも彼女の兄は若いが騎士隊の隊長という称号をもらっていたりするのだ。そんな騎士がいる所へはあからさまには視線は寄越されないだろうと、ベルが考えた結果だった。
「え……っ?」
 半ば強引にベルに連れられて、凛華は彼らの所まで行った。
 移動の最中にも周りの人の視線を感じて彼女は泣きたくなった。人の間を通り抜けるのだから仕方ないとは分かっていても辛い。見せ物になったような気がして、出来るだけ早くこの視線から逃れられますようにと何度も心の中で呟いた。


 彼らの傍に行って再びお辞儀をし、顔を上げると相手が自分の姿を呆然と見ているのに気付く。
(……やっぱりわたし、どこか変なのかな……)
 基本的に自分に自信というものを持てない凛華は困ったように視線を泳がせた。
「ロイアさま、兄さん、こちらがリンカさまでいらっしゃいますわ」
 ベルが「お綺麗でしょう?」と言いながら微笑んだ。
 凛華からすればにこりと微笑む彼女の方が余程綺麗なのだが、何やら自分はここでは一応見るに堪え得る顔をしているようだ。少し、ほっとした。
「え、あ……ああ」
 ロシオルは凛華の姿に見入っていたがベルの言葉に気付き、すぐに真面目な顔をして頷いた。頷き一つとってもどこかきびきびとして見える。とてもおっとりとしたベルと兄妹だとは思えなかった。

「先ほどは大変失礼いたしました。国王直属第二騎士隊長のロシオル・カナルツです。足の方は大丈夫でいらっしゃいますか?」
 堅苦しいほど丁寧な挨拶だった。
 その丁寧さに驚きながら、凛華もできるだけ丁寧に答えた。現代文はあまり得意ではなかったが、日常会話内での丁寧語ならわきまえている。……つもりだ。
「あ、はい……。大丈夫です。すみません、逃げたりして……。えっと……こちらの方は?」
 ひとまず謝ってから、彼の隣にいたもう一人の騎士のことを尋ねた。
 追いかけられた時に聞いた名前はセシアとロシオルのものだけだったから、凛華は彼の名を知らないのだ。
 耳元についたピアスは痛くないのだろうかと妙な所を気にしながら聞いた彼女に、にこりと人好きのする笑顔を浮かべて騎士は口を開いた。
「僕はただの騎士でロイア・サルヴァノです。宜しく、リンカさま」
 ロシオルとは違いこのロイアという騎士はどこかくだけた感がある。少し目尻が下がっているところがまた親しみを与えるのだろう。
(そう言えばこういう人、同じクラスにいたなあ)
 授業中寝てばかりの妙な男子生徒を思い出し、凛華はくすりと笑った。
 相手に失礼にならないように、本当に少しだけ。
「宜しくお願いします」
 またお辞儀をする。
「リンカさま。貴女がそう何度もお辞儀をなさるものではありません」
 ロシオルがどこか困惑顔で言った。態度と同様、言っている内容も堅い。
「兄さんは堅すぎですよ」
 ベルがくすくすと笑う。
 彼女は兄のことを常日頃から頑固だと評していた。騎士というその職業からなのか元々の性格なのか。おそらくどちらもだろうが、この兄は基本的に融通が利かない人間だ。
 カナルツ兄妹の会話に小さく笑みを浮かべてから、凛華はふと思いついたように提案した。
「あの……その『凛華さま』っていうのと、敬語、やめて頂けませんか? わたしそんな偉い人じゃないです……」
 消極的なその言い方に、ロシオルとロイアは顔を合わせて苦笑した。
 敬語を嫌う人間がいるとは驚きだ。彼女は彼らから見れば国王と同等の敬意を払われてしかるべき人間なのだ。運命を変える力とは、それほどまでにたいしたものだから。
「わたしも『リンカさま』を禁止されてしまったんですよ、兄さん」
 ベルは人差し指を唇にあてて面白そうにくすくすと笑いながら兄に告げる。
 どこか楽しむようなその口調に、ロシオルは深くため息をつく。いくら本人が言ったからといって女官が主を呼び捨てにするとは何事だとでも思ったに違いない。
「はあ……。では……リンカ。青が、似合うな」
 その瞬間、随分と人なつこい顔でロシオルが笑った。
 笑っているのと笑っていないのでは雰囲気が違う。
 笑っている方が良い。彼が笑うと、やっとベルと兄妹なのだなと凛華にも分かる。
 つられて笑い返した凛華を見て、ロイアが「美人ですねぇ〜」と笑っている。美人などというたいそうな言葉を普段かけられた例しがない凛華はそれをお世辞だろうと思ったが、美人と言われるのはくすぐったいながらも悪い気分はしない。言われ続けると嫌だが、こういう風にさり気なく言ってもらえると嬉しいのだ。


 彼らといる内に、幾分か向けられる視線は減っていた。
 やはりここは軍人の力か。剣を取る者に延々と不躾な視線を送る者はこの広間にはあまりいないようだ。
 「助かりましたわ」と冗談めかしてベルが彼らに礼をし、それから彼女と凛華はその場を離れた。
 ずっと中央にいるのでは疲れますからとベルが注意してくれた通り確かに疲れる。彼女の提案に従い、端の方へ行くことにした。あからさまな視線はもう追ってはこなかった。

「ロシオルさんって、何歳なの?」
 歩きながらこっそり彼の年齢をベルに尋ねる。
 二十代後半くらいだろうか。生真面目な表情がよく似合う彼は、大人びて見えた。
「兄は十九ですよ。陛下と同じ歳ですわ」
(……十九?)
 日本ではお酒も煙草も駄目な年代。税金も投票も関係ない年齢。二十代後半と思ってしまったなど、口が裂けても言えなかった。
「もっと年上かと思った………」
 とりあえずごまかすように凛華は曖昧に笑った。
 ベルは、引きつった凛華の表情を見て、面白そうに笑った。
「いつもそう言われてます。ひどい時は十歳ほど間違われていますわ。実際は三つしか変わりませんのに、随分と年の離れた兄妹ですねと言われます。ああ、ちなみに兄と一緒にいらしたロイアさまは十七でいらっしゃいます。あの方は年相応ですわよね」
 ああそうだ。ロイアという騎士はあのくだけた感じが、十七だと言われれば理解できる。とっつき易そうな騎士と、鋭い表情を浮かべていた騎士がたった二歳しか違わないなんて。
 驚いた。しかもロシオルはセシアと同じ歳だと言う。
 口の端を少し上げて笑う時のセシアの笑顔を見る限りでは、同じ年齢には見えなかった。
 ベルと自分が同じ年齢なのもあまり信じられないのだが、そちらの方がよほど信じられない。
 人って不思議だと改めて凛華は思った。
 それと同時に、周りの人は大人びているのに少し注目を浴びただけで緊張してしまう自分が少し情けなくなった。


***


 広間の端で落ち着きを取り戻した頃、凛華はセシアを見つけた。
 やはり国王と言うべきか、彼は奥の中央の方にいた。たくさんの人が国王を中心に談笑しているらしい。周りにさり気なく立っているのは近衛騎士だろうか。
 そして彼の隣には凛華の見知らぬ少女がいた。
 この広間のほとんどを占める人々と同じく茶色い髪だ。三つ編みにされたその髪の色は親友が髪を染めた時の色に似ている。
 彼女は背の高いセシアを見上げ、ふわ、と柔らかく笑った。それに対して、セシアも優しい笑みを返している。
 セシアと話しているあの彼女は誰なのだろう。
「ベル、あの可愛い女の子って誰?」
 再びこっそりと凛華がベルに尋ねた。
 彼女は誰のことを尋ねられたのか分からなかったようだが、凛華の視線がセシアの方を向いているのに気付き、そして誰を指しているのかも分かった。
「……フェルレイナさま……ですわ。陛下の義妹姫で、王女殿下でいらっしゃいます」
 ベルがどこか寂しそうに言った。遠くを眺めるような彼女の表情を見てから、セシアの居る方を見る。
 茶色い髪に焦げ茶色の瞳。セシアは、銀髪に青い瞳だった。
 あまりにも似ていない色だった。
「あの……血……繋がってない……の?」
「フェルレイナさまは第二王妃さまのお子様ですから……。お父上は前の国王陛下でいらっしゃいますが、お母上は別々でいらっしゃいます。完全に無縁という訳ではありませんわ」
 やはりどこか寂しそうに笑うベルに、ふうんと言っておいてから、凛華はそのまま視線を彼らに向けた。
 ベルの寂しそうな様子も気になるけれど、あまり立ち入ったことを聞いてはいけないと考えた結果だ。
 自分は一人っ子だったからだろうか。兄弟姉妹がいるのは、羨ましい。兄弟がいれば良かったと何度も考えたことがある。そうすればきっと、父親が亡くなった時の立ち直りも早かっただろう。けれどそんなことを考えても仕方がない。
 あんな優しそうなお兄ちゃんがいたら楽しいだろうなあと、三つ編みの彼女が兄に笑顔を向けているのを見ながらそう思った。


 そしてふとセシアと目が合った。
 彼は穏やかに笑っておいでと手招きをする。その視線の向いている方は明らかに自分だ。

「ベ、ベル……。行かなきゃ駄目、かな?」
 不安げなのを隠せず、ベルに言う。
 何せ彼は国王だ。そうでなくてもこれまでに嫌というほどの視線を浴びたというのに、彼の傍に居れば更に注目される。
 手招きされてしまった以上無視する訳にもいかず、おろおろと慌てた。
「勿論ですわ」
 ……逃げたいです。
 ちらりとセシアの方を見ると、変わらず穏やかに笑っている。
(あーもう! こうなりゃ自棄だ!)
 開き直った凛華が一回深呼吸して歩き出す。焦った時は深呼吸。教えてくれた父親に感謝しながら緊張して震える足を動かした。
 と。
「行ってらっしゃいませ」
 優雅にベルが礼を取った。さも当たり前、といった様子だ。
「えええ!? ベルここにいるの?」
 てっきりロシオルたちの所へ行った時のように一緒に来てくれるのだとばかり思っていた凛華はショックを受けた。
 ベルからすると当たり前なのだが。国王が招いたのは彼女であってその侍女である自分ではないのだから。
「……? ええ……」

(ひ、一人で陛下の所に行かなきゃいけないの……?)

 もう一度深呼吸。今度はあまり役に立たなかった。
 セシアがこちらに視線を向けたことで最初と同じようにまた自分に視線が集まっているのを肌で感じ取り、凛華は出来るだけ静かに歩いた。ばたばたと走り出すほどの度胸はない。

 毅然と歩いてセシアの元に行く。足が震えているのがばれないような長い裾で良かったと、ドレスを選んでくれたベルに感謝した。
 ベルが最初にしたように裾を持ち上げて一礼する。ぎこちなかったかもしれないが、とにかく礼儀は守った。
 相手は国王。
 この広間にいるどの人間よりも尊い人間だ。

「リンカ、そのドレス良く似合ってる」
 どうしてこうここの人たちは、こんなにもさらりと、人が赤面するようなことを言うのだろう。
 誉められるとどうしても頬が赤くなってしまう。
 少し俯いて背の高いセシアから表情が見えないようにしてから、小さくため息をついた。
「あ、ありがとうございます……」
 早く脱ぎたいですけど。という言葉は何とか飲み込めた。
 深呼吸を繰り返していると自分に向けられた視線に気付く。こっそりと凛華が見ると、フェルレイナが彼女の顔を見ていた。見れば見るほど可愛らしいその顔は、何故か機嫌が悪そうだ。セシアと談笑していた時の彼女とは大分印象が違った。
「は、初めまして、フェルレイナさま」
 初めて会ったにもかかわらず自分が挨拶を全くしていないことを今更思い出して慌てて頭を下げる。
 失敗してしまった。第一印象はきっと悪いだろう。
「……初めまして」

 その間が。
 怖いのですけれども。

「フェル、どうした? 気分でも悪いのか?」
 セシアが心配そうに義妹を見る。その様子はどこからどう見ても優しい兄そのもので、またしても凛華はフェルレイナが羨ましいと思った。
 セシアに尋ねられたフェルレイナは途端に花のような笑顔になる。たいそうな変わりようだった。
「ううん、大丈夫、お義兄さま」
(……あ。そうか、この子……国王陛下が好きなんだ……)

 何事に関しても鈍そうな凛華は時には鋭い。
 それはおそらく愛ではないけれど。この王女は、兄が好きなのだ。兄妹愛というものだろうか。
 その兄と、こんな見ず知らずの自分が親しく──と言えるかどうかは分からないが──話しているのが気にくわなかったに違いない。
 彼女はもう一度ちらりと鋭い視線を凛華に向けてから、ついっと顔を背けた。

「リンカ、何か飲むか?」
 義妹の変化に気付いているのかいないのか、ごく自然にセシアがそう凛華に尋ねる。
 そう言えば喉が渇いていた。緊張し続けたせいか、何か冷えた飲み物を飲みたい気分だ。
「あ……はい」
 浅く頷いた彼女に、セシアは給仕が捧げ持つ盆に乗っていたグラスを一つ選んで、手渡した。
 薄く色づいたそれは一見林檎か何かのジュースに見えた。
「ありがとうございます」
 小さく笑顔を見せてグラスを受け取る。喉がからからになるほど緊張しきっていた凛華はグラスの中の液体が何かを確認しなかった。
 飲む直前に鼻に届いたのはすっとした甘い香り。
 そして一口こくりと飲む。舌に触れた瞬間美味しいと判断したが、その次の瞬間に、凛華は喉を滑り落ちるものの熱さに驚いた。
 嚥下えんかしてしまったそれに、わずかな目眩を起こす。
 口当たりは爽やかだったけれど。それが引き起こしたものは、間違いなく酔いというやつだった。

(……ア、アルコール!?)

 しかも度、きついです、陛下……。
 女子高生に飲めた物じゃないです。って言うか、日本では未成年者は飲酒禁止なんです……。


 法律を守る守らないの前に、凛華はアルコールの類が苦手だ。匂いだけでも酔ってしまいそうになる。父親は自分が生まれてからは飲むことを控えるようにしていたし祖父は下戸だった。だから、それらは彼女には縁がない。内緒で酎ハイを飲んでいた友達はいたが誘われても断っていた。
 つまりこれがアルコール初体験で。
 彼女が思ったほど度数は高くはないのだが、彼女には充分きつかった。
 視界がにじむ。頭が熱くなってくるのがおぼろげながらも理解できた。

 アルコールは、強敵だ。