がたん、がたん、と時折小さな音を起てる馬車。
心地良い揺れに身を任せそうになり、本来の目的を思い出して凛華は慌てて目の前の人物に声をかけた。
「あ、あの……」
「はい?」
目の前の人物──セシアが穏やかな笑みを浮かべたまま彼女の方に視線を向ける。対する彼女は、上目遣いで、眉も下がりすごく不安な様子だ。
それでも彼が返事をしてくれたことに安心して、彼女はまた口を開いた。
「……どちらに向かっていらっしゃるんですか?」
国王だと聞いたからにはなるべく丁寧な言葉を使わなければと、妙な義務感にかられてたどたどしく話す。丁寧語はバイトの習慣で慣れてはいたが、尊敬語や謙譲語などは現代文や古典の教科書の中くらいでしか使わなかった。
「アルフィーユ城です」
彼は良い人だと、凛華は思う。
話をする時にきちんと人の目を見ようとしたところからそう判断したのだが……何だか、騙されているような気が、この時した。
「お、お城っ!?」
さらりと返された彼の言葉は、かなり彼女を驚かせた。
凛華は、この国の人なら元の場所に帰る方法を知っていて、自分を元の場所に戻してくれるのだと思っていた。そんな都合の良い、と思われるかもしれないが、それでも彼女なりに必死だった。学校もバイトも両親と祖父のお墓参りもやらなければいけないのだ。こんな、訳の分からない場所でおろおろとしている場合ではない。
「? あのままあの場所にいるつもりでしたか? あそこは野犬が多いから危ないですよ」
(……う)
野犬はちょっと、いやちょっとどころか、かなり怖い。
凛華は犬嫌いではないが、あまりにも吼えたてる犬は苦手だ。番犬なのだから仕方ないとは思うけれど、できればもう少し静かにして欲しいと思うのである。なので、野犬もできるなら遠慮したい。
いや、野犬がどうのこうのではない。
確かに野犬が多いのならあそこにずっといたくはない。
……が。お手をどうぞと言われてこの馬車に乗ってからどこへ向かうのか全く知らされなかったのだから、この戸惑いは仕方がないではないか。
「それに、色々話すこともありますから」
「は、話すこと……ですか?」
「はい」
(何だろう。……やっぱりわたしって不審人物だったんですかぁっ!?)
思いきり取り乱したりはしなかったが、それでも充分凛華はうろたえてしまった。
そうだ。確かに彼女は不審人物だ。
中世欧風の、と形容したら適当なのかもしれない彼らの服装。そして髪の色は銀やら金やら茶色やら。目の色はそれ以上に見たことがないものだった。そんな場所でグレイのブレザーに、典型的日本人の色をした自分はさぞかし異端な存在なのだろう。
相手は国王。つまり彼が「不審人物だ」とでも言えば自分はこの国の人を敵に回してしまうわけで。
それは野犬よりももっと遠慮したかった。
(このままお城に連れて行かれて……それで尋問とかされて……。身の潔白なんか証明できなくて……。あ、っていうかわたし不法入国ってやつなんじゃ……。わたし、もしかしなくても罪人!?)
つい突飛な想像ばかりが浮かんでしまう凛華である。
彼女が一人でおろおろと百面相しつつ色々想像していると、かすかな笑い声が聞こえた。
「え?」
顔を上げると、セシアが面白そうに彼女を見ている。
最初に見た人受けの良さそうな穏やかな笑顔から覗く、楽しそうな表情。
「ああ、ごめんごめん。そんな百面相しなくても……。別に城に連れ込んで虐めようとかは思ってないから、安心して」
口調も凛華を気遣ってくれたのか随分砕けたものになっていて、凛華はそれが何だか嬉しかった。
こちらの方がずっと親しみやすく、十九歳だと言われてもなるほどと思える。先ほどまでの丁寧で紳士的な態度を取っていた彼は、どう考えても凛華と三つしか離れていないとは思えないほど、大人びていた。
「あなたの安全のためには城が一番良い筈だから」
にこりと、楽しそうな表情をもう覗かせることなく穏やかな笑顔を浮かべたセシアはそう言い、凛華は「はい」と聞こえるか聞こえないかの声で返事をした。
笑われてしまった。国王に笑われるというのは初体験だ。ここに来てからというもの、何もかもが初めてのことばかりなのだが。
先ほどよりも更に縮こまりながら、自分のみっともなさに、後悔した。
***
そして、そう時間をかけることなく、馬車はアルフィーユ城の見上げるほど大きな城門をくぐった。
馬車が城門をくぐる際、その場に居た衛兵と思しき兵士たちが一斉に軍旗を掲げたことに凛華は思わずびくっとしてしまったのだが、当たり前のことだったらしくセシアは驚きもしなかった。
「この部屋自由に使っていいから、どうぞ?」
城内に入ってから何だかものすごく立派そうな塔の最上階まで上がり、セシアにそう言われて部屋に入ると。
とても広かった。
ぽかんと部屋を見つめた後で、凛華はあわあわと慌てる。
(ひ、広ーいっ! ちょっと待って……。高校の教室よりも広いよ、ここっ!)
「足りないものがあったらいつでも言って」
(いえ。むしろありすぎてびっくりです)
綺麗な調度で統一されているその部屋は、凛華の目利きが確かであれば、王女様とかいう人が使っている部屋に違いない。
アンティークだと彼女が表現する調度は思いきり叩くとぽろりと取手が取れてしまいそうで怖い。一体いくらくらいの価値があるのか、映画で観たことしかない彼女にはさっぱり分からなかった。
そっと別の扉から除いてみると、奥の部屋は寝室らしく、天蓋つきの大きな寝台がでんと置かれていた。
窓辺に揺れるレースのカーテンの傍にはさり気なく生花が飾られており、寝台横の低い棚には水差しが用意されている。
まるで最初から誰かを迎えるために整えられた部屋のようだ。
いや、そんなことよりも。どうして自分はこんな好待遇を受けているのだろうか。
ただの女子高生だった筈だ。お嬢様と分類される人間でも、高級な調度を使うような人間でもない。
逆だ。元地主だった祖父の遺産は相続税などであまり多くは残らなかった上に、生活費は自分のバイト代から、という生活をしていた彼女は、奨学金制度に助けてもらっている身だったのだ。こんな高級そうなものを使ったりすることは、ない。
「あ、あの……。どうして……この部屋を、わたしに?」
居心地が悪いような、そんな感じがして凛華はおずおずと聞いた。
本当にこんな待遇を受ける理由が分からないのだ。
眉尻を下げて困った様子の彼女に、セシアは、いつもそんな表情をしていて疲れないのだろうかと彼女が思うくらい穏やかな笑顔を浮かべ、言った。
「それは貴女が『運命を変える力を持つ人』だから」
笑みを絶やさない彼の口から漏れた言葉は想像の限界を遥かに超えていた。
(『サダメを変える』って……何っ!?)
まるでおとぎ話のような話題だ。
普通の生活をしていて運命を変えるという話題に至ることはない。……なかった。確かにこの時までは。
「り、凛華でいいです。……で、……ど、どうしてそれがわたしなんですか?」
貴女と呼ばれるのは何だかくすぐったい気がしてそう言った。
「ではリンカ。訳は……話すと長くなるんだ。そこ、座って」
幾分か親しげにそう名前を呼ばれ、彼女は手前の部屋にあった椅子にそっと座る。ふかふかの椅子はとても気持ちがよく、一日前に野原で転がって眠った自分が座って汚れないだろうか、とふとそんなことを思った。
凛華が座ってから、セシアも凛華の向かいに腰を下ろす。
何が何だか分からなかったけれど、自分に関することなのだからと凛華は話を聞く体勢に入った。
「長くなるけど、良い?」
こくりと凛華が頷く。
どうせ、元の場所に戻るつもりだが、時間はある。一日や二日くらい学校を休んでも大丈夫だろう。授業に追いつけなくなるのは困るが、頑張れば間に合う。
「この話の始まりは、この国……アルフィーユと、隣国ジェナムスティとの争いからだったんだ」
彼の青い瞳が綺麗だなあと見上げながら思っていた凛華は、彼が話を始めたので慌てて目の色のことを頭から追い払った。
後からもう一度言って下さいなどと言えそうにない。
彼の説明に因るとアルフィーユはついこの間まで隣国である、こちらも大きな国のジェナムスティと戦争をしていたそうだ。戦争という言葉を凛華は教科書の中くらいでしか知らなかったので、あまり実感は湧かなかったけれど。
隣国から仕掛けてきた戦争はアルフィーユに敗北、という形で終結。元々どちらの国も国力はあるのだが、戦力としてはアルフィーユの方が上なのだそうだ。
話を聞いていて彼女が一番驚いたことは、その戦争は一回だけではなく今回の戦争で五回目なのだそうだ。そんないざこざを起こしていてどうして今はこんなにも穏やかなのだろうと少し不思議に思った。
彼の前の国王──父王の時から始まったそれは、常にジェナムスティが攻撃を仕掛け、アルフィーユが全て終わらせている。アルフィーユはジェナムスティ一方的に敵視され続けていた為に、和平交渉を結ぼうと思っても国王が一向に応対しないのだ。
昔は友好な関係があったのだけれど、と彼は付け足した。
戦争。
子供同士の口喧嘩や、中学生くらいの少年同士の殴り合いのような、簡単に済まされるものではない。
実際に大勢の人が死んでいくのだ。
本当にとんでもない所へ来てしまったと今更ながらに凛華は自覚した。
前回の戦争で、いい加減にこのような意味のない戦争を止めたかった新王セシアは、アルフィーユで有名な占術師を訪ねてどうすれば良いか尋ねたそうだ。
現代女子高生である凛華からすれば占術師に頼るなど、少し情けない気もするのだが一昔前まではどの国でも占術で政治を行っていた、というのだから無理もない。彼はあまりそういったことに重きは置かないらしいが、周りに勧められたのだと少し不満そうに言った。
そしてその占術師に言われた言葉はこうだ。
『いつかフィアラの咲き乱れる暖かい春に、運命を変える力を持つ漆黒の者が現れるだろう。……そう預言した、巫女様がいらっしゃいます。彼女ならば、もしかすると――――』
この終わりのない戦争に、終止符を。
時々ちょっとした会話をかわしていたからか、彼の話が終わる頃には少し凛華は疲れていた。
だが最後の彼の言葉を聞いてぽかんと目を丸くする。
暖かい春?
そう言えば……昨日寝転んでいた時も思ったのだが、とても暖かくて良い天気だった。
これはまさしく春という季節なのではないか。
それにこの好待遇。
まさか。……まさか、そんな。
「へ、陛下……。まさか……まさかですけど……わたしがその異国の者……とか仰ったり……しませんよね?」
否定されることを期待していた言葉だったが、直後、儚い彼女の期待は彼の次の言葉によって崩れ去ることとなる。
「そういうことになるかな」
こともなげに言われた台詞は、何事もなく元の場所に帰ることができるかもしれないという彼女の期待をあっさりと崩してくれた。
(じょ、冗談でしょーーーっ!?)
セシアがじっと凛華と視線を合わせた。
「リンカさえよければアルフィーユとジェナムスティを救って欲しい。私は無理強いをするつもりはないから。嫌なら嫌とはっきり言ってくれて良い。リンカは元々このこととは全く関係がないから、本当はこんなことを頼む私たちは筋違いなんだ」
透き通るような青い瞳に覗き込まれて凛華はどきりとした。
出来れば近づかないで欲しい。ただでさえあまり良くない経験から異性に近づかないようにしていた彼女は、こういう風に近づかれるとどきどきが止まらなくなるのだ。
しかも相手の顔は彼女のいた場所でも格好良いと充分に評価されるに相応しい造りをしている。
はっきりと断ってくれて良いと言われても、言えなかった。
「で、でも、わたしにそんな力は……」
ある筈、ない。ただの女子高生なのだ。
確かに「今時の女子高生」と少し白い目で見られるような彼女たちとは似てはいないが、高校生の女であることは間違いない。
「ある。少なくとも俺やこの国の人たちはそう信じてる。どう? お願い、できないかな」
彼が頭を下げ、穏やかな笑みを消して真剣な顔でそう言った。
彼の一人称が変わったことに凛華は気付かなかった。それほどに、どきどきとする心臓がうるさかった。
一国の王が普通の女子高生に頭を下げて頼み事をする。
それが、この国ではとてつもないことなのだろうが、初めてそれを体験する凛華が分かる筈もない。
ただ、彼の
真摯な瞳に応えたい。
何故だかそう思った。この分だと帰る方法は分からないだろうし、元々親切心を持ち合わせている彼女には、先ほどの話を聞いて断ることができなかった。
だから──
「……わたしに出来ることなら……したい、です、けど」
凛とした瞳ではっきりとそう言い切った。それを聞いてセシアがにこりと笑う。
その笑顔が年齢よりも幼く見えて、彼女も真剣な表情を緩めて小さく笑った。人のこういう表情は好きだ。
「ありがとう」
その笑顔にどぎまぎしながらも、彼女はぺこりと頭を下げた。
宜しくお願いしますという意思の表れだ。
帰る方法が分かるまではこの部屋は自由に使って構わないというありがたい言葉も頂いた。
親戚などこの見知らぬ土地にいる筈もなく、もし出ていけと言われたら路頭に迷うことになってしまうので、彼女は少々遠慮に欠けるかもしれないと内心で思ったものの、その言葉に甘えることにした。
「ああ、足の怪我は大丈夫?」
そう言えば。
凛華がちらりと自分の足を見ると、もう黒のハイソックスは使い物にならないほどに血が出ていた。学校指定のものは必要なかったのでとりあえず買った高くないものだから惜しくはないが。
他人に言われて気付いた途端に痛くなり出すから困る。
人間の脳って不思議だと、彼女は思った。
「だ、大丈夫です。これくらい……」
放っておいてもかさぶたになって消える。お転婆娘だった彼女には、擦り傷や切り傷の類はそれこそ日常茶飯事だった。これはあまり自慢にはならない。
頭の隅でそんなことを考えながら断ってみる。怪我をしたことをきっちり覚えられていたのが無性に恥ずかしかった。
「駄目だ。傷はちゃんと消毒しないと化膿するから。こっちの椅子に座って」
そして傷口を確かめたセシアにあっさり撃退される。
「いえ、あの」
尚も断ってみた。
思いきり激突したりした以上今更のような気もするが、国王陛下に手当をされるなんて、とんでもない。
セシアが少し困ったような表情を浮かべる。
諦めてくれるかな、と彼女がほっとした瞬間に。
いきなり抱き上げられた。
「ひゃっ!」
妙な声を上げ、凛華は身を縮めた。
まさか仮にも一国の王様に抱き上げられるとは思わなかったのだ。しかもこれは世に言うお姫様抱っこというやつで。
本来ならば黄色い声でも上げて喜ぶ場面なのだろう。けれど彼女は本当に男性に触れられることが少なかったので、それどころではなかった。
ふわりと先ほどとは別の椅子に降ろされる。ぽっちゃりとしている訳ではないけれど自分だって普通の十六歳。こんなにも自然にされるとは思っていなかった。
「あ、あ、あの……」
頬を染め上げて、言葉にならない台詞を何とか口にする。
「怪我人は看病者に逆らわないこと」
焦る彼女を見て、セシアは口の端を少しあげて笑った。穏やかな笑みよりも少し親しみやすさのようなものがある。
そんな笑顔で言われたら反抗できないではないか。
仕方ないので凛華は反抗するのをやめ、黙った。
彼が自らの手で救急箱のような物を持ってきて彼女の前に
跪く。
綺麗な髪だなあと、開け放された窓から差し込む光に輝く彼の髪を見つめて、ぼんやりと思った。
「陛下ってこんな事までなさるんですか? お医者さんじゃないのに……」
国王と言えば、周りの人間に全てさせているようなイメージしかない。
「一通りは教育受けたから。ちょっとしみると思うけど我慢して」
保健室にありそうな消毒液を浸したガーゼが近づけられた。
そっと押し当てられたが……痛い。
「つ……っ!」
ちょっとどころじゃありません。
痛い。とてつもなく痛い。
痛い方がすぐに傷が塞がる気がしたが、それでもこの痛さは辛い。彼女は奥歯ぐっと噛んで我慢した。平然としているセシアの前で声を上げて痛がるのは何となく悔しかった。きっと彼はもしこの消毒液をつけられても──怪我をしたとして、だが──声をあげないのだろう。
消毒液をつけ終わったらしく、彼が別の新しいガーゼの上から丁寧に包帯を巻いていく。
手際が良い。教育を受けたというのは冗談ではなく本当なのだ。毎日遊び暮らしているという王様のイメージを、頭の中から消して少し反省した。
「はい終わり。傷口開くから、しばらくは走りまわったりするのは禁止だ」
「はい。あ、あの! ……ありがとうございました」
挨拶と御礼は人の基本。
父親に繰り返し言われた言葉を忘れてはなかった凛華は、ぺこりともう一度頭を下げた。何だか彼には激突したり長話をさせてしまったり抱き上げられたり消毒をしてもらったりと、迷惑をかけてばかりな気がする。
「どういたしまして。じゃあ」
セシアは救急箱をきちんと直すと、彼女を安心させるように穏やかな笑みを浮かべて部屋を出ていった。
静かに扉が閉められ、だだっ広い部屋に取り残される。
丁寧に手当された足を見つめて、軽く動かして痛くないことを確認していた彼女は、ぽつんと一人であることに気付いて慌てた。
「え……っ?」
ちょっと待ってよ。一体この先どうすれば……?
……な、謎です。