「むー……」
 唸るような小さな声をあげ、凛華はころりと寝返りを打つ。高価なものではなくあまり柔らかくない自分のベッドとは違った感触にもう一度ころりと体の方向を変えた。
 少し、ちくちくする。
 頬に何かが当たっているのだろうか。
 ゆっくりと凛華が目を開けると、目の前には咲き乱れる白と青の花がさわさわと風に揺れている。
 その花の奥に広がるのは名前の分からない木と、澄んだ青空。
 地平線とはこういうものをいうのかとぼんやり思った。青い空がまるで緑に吸い込まれていくように終わっている。どちらを向いても高いビルやマンションや学校が視界に入った世界とは、全く違っていた。
「あー……やっぱり起きたら元に戻ってた、とかじゃないんだあ……」
 それを期待していたので、少しがっかりした。
 夢ではなかったのだ。もしかしたら夢の続きを見ているのかもしれないと自分の頬をぎゅっと抓ると、思いの外痛んだのでやめた。


 腕時計を見ると表示は十六時だった。
 ちっちっと動き続ける秒針が確かに今は動き続けている現実なのだと教えてくれる。
 先ほど──いや、昨日か。目を閉じてからの時間は一日近く経っている筈だ。
「あれ? わたしそんなに寝てた?」
 自問。勿論答えはない。
 寝不足も体に悪いが寝過ぎも体に悪い気がする。それでも、うーんと寝転がったまま腕を伸ばすと頭はすっきりとしていて、疲れはもう感じられなかった。
 上を向いて空を見ると昨日と同じくやはり昼間だ。昨日より雲が多い気がするが、それでも今日も良い天気だった。
「何か……起きてもまだ夢を見てる気分……。ねぇ、ティオン?」
 凛華が寝転がったまま首だけ横を見るとそこには影もなかった。
 ただ、花と草がさわさわと揺れるだけ。
 目を閉じる前には夢ではなく確かにそこにいた筈の白い小鳥。ぴい、と意識が途絶える直前に聞いたのはあの鳴き声だ。
「ティオン? ……そっか。お家に帰ったのかあ……」

 大丈夫。慣れているから。
 大丈夫。寂しくなんかない。
 目が覚めて周りに誰もいないのなんて、もう慣れたから……。

「わたし……このまま元の場所に帰れないのかなあ……」
 今頃「女子高生行方不明に! 家出か事件か!?」などと報道でもされているのだろうか。
 家出も何も、たった一人しか住人のいない家を出たところで変わりはないのだが。


***


 凛華がぼんやりと、青い、青すぎる空を眺めていると、後方から大きな音がした。
 がさっと植物がこすれ合う音。これは、何か動く存在がいるということだ。
「な、なにっ!?」
 寝転んだままだった体を素早く起こして立ち上がり、唯一の持ち物である鞄をたぐりよせる。
 足下は革靴にハイソックスで装いは制服、という動きにくいことこの上ない格好だったが、凛華は足には自信がある。少し反動をつけてから駆けだした。こんなところで誰かに探されるようなことはしていない。自分を探している人間ではないとしても、それが彼女に危害を加えないとは限らないのだ。
 彼女が走り出してすぐに、後ろから声が追ってきた。
「何よ、これぇーっ」
 何か言っているがそんなことは今の彼女には関係ない。
 学校内でもトップクラスの短距離の記録を持つ凛華は、鞄を片手によりいっそう速度を上げた。長距離はあいにくと得意分野ではないが、短距離で相手を引き離すのは得意だ。
 後ろに流していただけの髪が顔の横でなびいて頬に当たったが、今はなりふりに構っていられなかった。
 知らない場所で知らない人に大声を上げて追いかけられるのはとても恐ろしい。それも、足音は一つではない。大勢に追いかけられているのである。あまりの恐怖に涙が出そうだ。
 この時ばかりは彼女は小学校の頃からリレーだけは得意だった自分の脚力に感謝した。

 凛華はこの土地の地理など全く分からない。
 どこをどう行けばどこに通じるのか分からないまま、一心不乱に走り続けた。


 半ばパニックに陥りながら走っていく内に足に伝わる感触が変わる。花の咲き乱れる少し柔らかい土とは違って、革靴越しに伝わるその感触は固かった。柔らかい土に足を取られない分、こちらの方が走りやすい。
 足下の青と白が消えていき、代わりに緑が増えていった。

 ふくらはぎに鋭い痛みが走った。
「……っ!」
 どうやら、棘のある植物の所に入り込んでしまったようだ。足の裏や甲は革靴が守ってくれていたけれど、そこから上のハイソックスにしか守られていない部分が痛い。
 それでも恐怖に突き動かされて次の一歩を踏み出すと、更に痛みが走った。
「いた……っ!」
 今度は、始めよりも深く棘が刺さった。肌を引っ掻くような痛みとは別に、えぐれるような痛みがあった。
 薔薇などとはまた違う、とても強靱な棘を持つ植物らしい。
 悲鳴をあげるほどの痛みに、本能的に止まらなければと思ったのだが、走っている人間は急には立ち止まれない。たたらを踏んだ凛華の足が絡まり、凛華は声にならない悲鳴をあげた。
 こんな棘だらけの場所に倒れ込んだら。
 とっさに手を突かなければと思ったが勢いがつき過ぎていて、凛華はきつく目を閉じることしかできなかった。

 けれど予想に反し、彼女を襲ったのは棘による痛みではなく、鈍い音と共に強く抱き留められた痛みであった。
「っ!」
 衝撃に息が詰まり、凛華はそろそろと目を開けた。
 胸の下あたりに誰かの腕が回されており、その腕が、顔中刺し傷だらけという事態を回避してくれたのだと知る。
 一体誰が、と腕を辿って視線を上げ、凛華は目を丸くした。

 青い、瞳。

 うわー欧米人だ、という青ではない。灰の交じった落ち着いた薄青ではなく、目の覚めるような青。先ほど呑気に見上げていた抜けるように高い空の青よりも尚青い。そして陽の光を受けてきらきらと透けて輝く髪は、見事な銀色だった。
(う、わ……っ!)
 呆気に取られるほど綺羅綺羅しい色を持った、青年だった。
 そして、あまり男性と触れあわない凛華の感覚でも、群を抜いて、とかべらぼうに、というような言葉が前につくほど、整った顔立ちをしている。
 男前だというよりはむしろ綺麗と言った方がぴったりくるような美貌で、思わず凛華は頬を赤らめてしまった。いくら男性に興味がないとは言え、さすがにこれほどの美貌を前にすると緊張するのである。

 少ししてから、凛華は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……っ」
 ぶつかった──というよりも、思いきり激突してしまったのだ。
 その容姿に目を奪われてぽかんとしてしまって、謝罪も、助けてくれたお礼もしていない。何て間抜けなのだろうと恥ずかしくなる。
 そう言ってから凛華は後悔した。
 彼女の見る所、ここは日本ではないらしい。近くに高層ビルもなければ田んぼのあぜ道が見えるわけでもない。そんな所で出会った人間に何の考えもなく日本語を使ってしまった。しかも相手は青い瞳をしている。傍から見たら自分、ものすごく不審人物かも知れない。

 だが。

「大丈夫ですか?」

(あ、通じた……)
 あっさりと、はっきりと凛華にも理解できる日本語で返されて彼女はがくっとなる。
 拍子抜けだ。青い瞳をしているのだから、これは偏見なのだが、「フーアーユー?」くらい言われるかと思ったのに。彼の口から出された音は、少しも違和感を感じない日本語だった。
「は、はいっ。──あ!」
 凛華がはっと思い出して振り返ると、先ほど彼女に声をかけたのだろう人たちがすぐそこまで来ているのが見えた。左右に手を振って何か話があるご様子だ。
 冗談ではない。何もしてないのだ。
「す、すみませんでした!」
 と、青年に慌ててもう一度謝り、凛華は駆け出そうとした。きちんと頭を下げられていたかは定かではないがこの際どうでもいい。
 とにかく、追いかけてくる人たちに追いつかれてあげるわけにはいかなかった。
 思いきって、足を踏み出す。
 棘のせいで足にひどい怪我をしているのを、綺麗さっぱり忘れて。

「危ない!」

 意識は走りだそうとしていたが、怪我をしていた足は抵抗する気満々だった。動かないぞと足が主張しているにもかかわらず走りだそうとしたのだから、再び身体は傾く。
 だが今回も完璧なタイミングで差し出された腕によって、凛華は更に余計な怪我を負わずに済んだ。
「ごめん、なさい……」
 情けない。思いきりその腕にしがみついてしまった。
 頬を赤くしながら、彼女は自分の身体を支えてくれる彼の腕からそろそろと手を離した。男性の腕に抱きついたのは、父親と祖父以外では初めてだった。凛華の棒きれのような腕とは違う、力強い腕。筋骨隆々という風には見えないのに、凛華一人を簡単に支えてくれた。

 と。

「待って! お待ち下さい!」

 背後からかけられた声。慌てて凛華が振り向くともう本当にすぐそこまで来ていた。彼女が転びそうになっていた内に随分と距離を詰められてしまったらしい。
 また駆け出そうと思ったが、青年の腕が自分を支えるために腰に回されたままだ。それに後ろの相手がとても必死そうだったので、やめた。どちらかと言うと、足が痛いから、という理由の比重が大きかった気がしないでもないが。

 凛華はふうと息を吐き出して自分を落ち着かせると、ゆっくりと向き直り、しゃんと背筋を伸ばして追ってきていた相手を見据える。文明の利器ばかりに頼る現代人とは少し違った境遇にいたせいか、彼女のその様子はどこか大人びた雰囲気があった。
(わたしは何にもしてないんだから! 逃げたりしませんよーだ!)
 だが実際は、中身は少々子供だったりする。


「何か用ですか?」

 そして、なるべく無表情に徹して喋った。
 隙を見せてはいけない。一応自分がここでは怪しい人物として分類されてしまうことを、先ほどの青年の服装と顔立ちで判断したのだ。そしてそれは半分ほど正しかった。
 やっと追いついた彼らは、革靴を履いているのが嘘のような凛華の速度についてきたため、ぜえぜえと肩で息をしていた。運動不足と言ってはいけない。彼らが遅かったわけではない。彼女が速かっただけだ。その上、彼らは学生鞄一つの凛華とは違って、武装をしているらしく、全速力で長距離を駆けるのに向いているとは言えない。

 凛華を追っていた相手をぐるりと見渡すと、背の高い男性ばかりだった。やはり青い瞳の青年と同じように、現代社会で見る服とは違う服を着ていて、凛華はこの人たちは何者なのだろうと不躾にもそう思った。外見にはあまり表れなかったので彼らには伝わらなかったが。
「貴女……お名前は、何と?」
 ふーっと長い息をついた後、一人の男性の口からそんな言葉が出た。
 やはり自分は不審人物なのだろうか、と凛華はこくりと息を呑む。目の前の彼らの腰に挿してあるのが人を殺める剣であることに、気付いた。
「あ、浅川凛華、です……けど……」
 彼女が名乗るとその場に居た、六人の男性と青い瞳の青年が軽く目を見開き、驚きの表情を見せた。
 そのことに逆に凛華の方がぎょっとした。名前を名乗ったくらいで驚かれる筋合いはない。そんな風に驚かれたら、こちらの方が驚くではないか。
「……この国の人じゃないな」
「……ですね」
 彼らの内二人が、驚いた顔のままで内輪で頷き合う。
(……わたしにはさっぱり話が掴めないんですけど……)
 この国の人じゃないとか何とか言われたりすると気になる。
 日本でないのは分かった。それならば、ここはどこなのだろう。
「あの! ……ここって何ていう国なんですか?」
 凛華はなけなしの勇気を奮って彼らに声をかけてみた。
 放っておいたらこちらを無視され続けかねない。事実、彼らの内半分ほどはまだ驚いたままで呆然としているし、その他は何やら話し合っている。
 何なのだ一体。

「ここですか……? ……アルフィーユです。大陸ではかなりの北側に位置している国です」

 彼女の一番近くにいた金髪の男性が、丁寧に彼女に教えてくれた。
 但しいくら丁寧であってもその内容は彼女を困惑させるものでしかなかったけれど。
(アルフィーユって……どこですかっ!?)
 日本でないならどこの国なのだろうかと思っていたのに。
 どこだ、アルフィーユって。
 外国でそんな名前の国があっただろうか。くるくると回る地球儀や横に長い世界地図を思い浮かべてみても、アルフィーユという国名には聞き覚えがなかった。勉強不足だろうか。いや、一度も国名を聞いたことのないような国は、大抵内陸の方の国々だ。大陸の北側と言うと……世界一大きな国とか、世界一早く近代化した国とかだ。あの辺りにアルフィーユという国は……なかった、ような。

「この女性なのか、ロシオル」
 凛華の後ろにいて、今まで黙っていた青年がその時初めて彼らに対して声をかけた。
 すると彼らは青年の存在に気付き、慌てて膝をついて彼に敬意を表した。
 凛華がもし頭の中のくるくると回り続ける地球儀を思い浮かべていなかったのなら驚いただろう。たった一人の青年に、こうして六人もの体躯の良い男性が揃って膝をついているのだから。
「はい。おそらくそうだと思います。――陛下」
 ロシオルと呼ばれたらしい先ほどの金髪の騎士が畏まった声で答えた。
 そこにきてやっと地球儀を頭の中から追い出した彼女の耳に、その声が届く。
 そして、唖然とした。
(……へいか……へ、陛下ぁっ!?)
 陛下というとあれだろうか。
 「国王陛下」とか「天皇陛下」とかいうブラウン管越しにしか見ることのないえらく社会的地位の高いという人たちのことだろうか。
 平凡極まりない普通の女子高生である凛華には陛下と呼ばれるような人を目の当たりにしたことなどない。
 ましてそれが白ひげをたくわえた貫禄のある人ではなく、綺麗と形容するのが相応しい、この青年が。

「へい……か?」

 驚きがそのまま声にも表れたらしい。
 少々間抜けな声で呟いた凛華に、青年は小さく笑みを浮かべて向き直った。
 この場に芸能人好きな彼女の親友がいたなら、きっと声にならない声を上げて喜んだことだろう。それくらい、彼の笑顔は穏やかで綺麗だった。

「ああ、申し訳ない、自己紹介が遅れたね。私はセシア・レリアス・アルフィーユ。この国の王だ」

 国王。彼は国王と言った。
 現代社会でそんなことを言おうものなら馬鹿にされるか無視されるだけなのに、彼にはそれらしき気品のようなものがあった。
「は、はあ……」
 凛華は更に間抜けな声しか出ない。
 じっとセシアと名乗った青年を見ると、どう考えても「王様」という歳には見えなかったのだ。王様と言えば立派なひげがあって堂々としている壮年の男の人で……という固定観念がある彼女は、訝しげな気持ちを隠せないまま口を開いた。
「……し、失礼ですがおいくつですか?」
 言ってしまった後でまた後悔した。
 初対面の人に年齢を尋ねるなど、何て馬鹿な真似をしてしまったのだろう。
 けれども彼は変わらず穏やかな笑みを浮かべ、嫌な顔一つせず答えてくれた。
「十九だよ」
 先ほどと同じようにさらりと答えられる。
(一国の王様が十九歳……?)
 凛華はその返答に、ぴしりと自分の身体が固まってしまったような気がした。
 そして泣きたくなった。


 お父さんお母さん、何だかわたし……とんでもない所に来てしまったようです。
 おまけに、夢じゃないみたい。
 この先……どうなるんだろう……。