「んー……」

 目を開けて、視界を真っ白に染める光の眩しさに思わず彼女は手をかざす。
 暖かい春の柔らかい陽射し。ぽかぽかとしていて、とても良い天気だ。周りには淡い緑の葉広げる木と、少しちくちくする柔らかい草。その上咲き乱れる花に囲まれた綺麗で落ち着く大自然。
 さてここで気持ちよくもう一眠り……。
(……って、ちっがぁぁぁう!!)
 がばりと彼女は起きあがる。起きあがるというよりは飛び上がると言った方が正しいかもしれない。それほどにものすごい勢いだった。

 ──ちょっと待って。
 彼女は覚醒したばかりの脳で考え始めた。


「ここ……どこですか……?」


 こくりと首を傾げた彼女は一度口をつぐむと、自分の足があるかどうかを確かめてみた。あった。死後の世界とやらではないらしい。
 そして今度は自分の頬を抓ってみた。痛かった。夢の世界でもないらしい。
 意外と呑気な自分に気付いた彼女は自身を叱咤し、再び現在に至るまでの状況を必死で考え始めた。
「……落ち着こう。と、とにかく落ち着かなきゃ」
 ぶつぶつと独り言を始めた彼女は唐突に大きく深呼吸をした。
 彼女はただ単に自分を落ち着かせようとしただけだったのだが、もし万が一この光景を誰かが見ていれば、変な少女だと思われたに違いない。
「わたし……浅川凛華あさかわ りんかちゃんですよねー?」
 自己確認をしておいてから彼女は少し笑ってしまった。「ここはどこ?」状態ではあるが、「わたしは誰?」状態にはなっていないようである。
 現実離れした状況はこれが初めてだったが、彼女──凛華は、どこか平然としていた。
 次々と頭の中で自分に関する情報を集め、目下の問題を解決しようと試みる。とにかく問題は一つしかない。

「ここ……本当にどこなんですかー?」

 返事は勿論なかった。



 一応自分が白昼夢を見ているわけではないと判断した凛華は、上半身を起こしたままきょろきょろと見回した。立ち上がるのは何だか面倒くさかった。
 周りには……見たことがない珍しい木があちこちに生えている。これのおかげだろうか、日差しはとても柔らかく心地良い。
 凛華には木の名前などよく判らない。きっと図鑑には載っているのだろうが、都会に属する場所で暮らしていた彼女は、木を見てその名前が判るほど植物に詳しくはなかった。桜とか紅葉とかいう親しみのある木くらいなら勿論知っていたが、まるで見たことのない木の名前は判らないのである。
 視線を自分の傍に移すと、青と白の小さな花が咲き乱れている。手入れされている訳ではないのだろう。その花たちは思い思いに花びらを広げ、柔らかな日差しの中で幻想的な光景を創り出していた。
 その花にはどこか見覚えがあった。
「……勿忘草わすれなぐさ?」
 ぽつりと呟いた言葉に自分で納得する。そうだ、勿忘草だ。確か青と白だけでなく桃色もあった気がするが、一帯に咲いていたのはその二色だけだった。
 それに、見たことのある勿忘草は、もっと薄い色をしていた気がする。けれど広がる花たちはどれもはっきりとしたコントラストを見せ、薄い青ではなくくっきりと鮮やかな青い色をしていた。
 もしかしたら勿忘草ではないのだろうかとちらりと考えた凛華は、ぶんぶんと頭を振ってまた最初の考えに戻った。
 そんなことはどうでもいいのだ。
 目覚めれば知らない場所、なんていうことになってしまったこの状況について考えなければ。


 確か自分は先ほど学校を出たばかりだった。色々とバイトをしているのでものすごく急いでいたような覚えがある。
 それがどうしてこんなところで呑気に昼寝などしているのだ。
 今日のバイトは最も馴染んだバイト先で、服屋とカフェを営んでいる店だ。唐突にフラワーショップにでも変えたのだろうかと思ったが、まさかと首を振ってその考えを消した。
 ──バイト……。

「……あ、バイトぉっ!!」
 焦った声をあげ、凛華は腕時計を見た。時間は十九時。
(……十、九……時?)

 おかしい。ものすごーくおかしい。
 この温かな日差しは確かに今が昼頃か、それを過ぎた頃だと告げている。
 これが日本時間の十九時だというなら、日本人は夕暮れ時の赤い空を見ることもなく眠りについているということになってしまう。
「七時!? ……午後!? 夜ー!?」
 とにかく心に思いついたこと全てを言葉に変えてから、ぴたりと口を閉じて凛華はもう一度周りをゆっくりと一通り見回した。自分の目に「何時でもお昼に見えます」とかいう妙なレンズでもついていない限り、この景色は間違いなく昼のものだ。
「お、お昼だよ……?」
 ちっちっと小さな音をたてて時を刻む腕時計。
 それが壊れでもしたのだろうかと思い、制服のポケットに入れっぱなしにしていた携帯電話を引っ張り出した。待ち受け画面に表示されている時間もやはりPM7:00。つまりは腕時計と同じ十九時だ。
 ぱちりという音とともに閉じた携帯電話をじっと見つめ、凛華は再びそれを開いた。
 今度は、閉じた時とは違ってかなりのスピードだった。

 携帯電話、だ。

 何て便利なものだろうか。電波があればどこへでも繋がるもの。
 今の自分の状況に戸惑っていてすっかりそのことを忘れていた。
 電話が通じれば問題ない。もしこれが自分の見ている馬鹿げた夢だったとしても、きっと誰かに電話をかければ大笑いしてくれる。「何してるの」とからかい半分に言ってくれる。
 それにバイト先の店長に連絡を取らなくてはいけない。別に店長でなくても先輩でも良かったのだが、あいにくと凛華はバイトの先輩の携帯番号を知らなかった。
 十九時と言えばもうバイトが始まる時間帯だ。服屋とカフェ。階違いだが二つとも同じ店舗であるバイト先は、この時間帯は会社帰りの社会人などがたくさん寄るので何かと忙しかった。
 いざ電話をかけようと、アドレス帳を検索する。
 のんびりとした性格の店長には滅多に電話をかけることなどなかったので、それを見つけ出すのになかなか時間を要した。
「あった!」
 それほどたいしたことでもないのに何故かそんな歓喜の声を上げてしまい、その直後周りに誰もいないにも関わらず、恥ずかしくなって口を閉じた。
 さあとにかく電話だ、電話。喜んで声を上げている場合ではない。
 大抵の場所なら電波が通っているのだ。
 そう、電波が────

 圏外。

 地下鉄や祖父の家があった田舎の一部でしか見たことがないその表示。
 圏外。電波を示す棒は一本も立っていない。

「はああーー……」
 凛華はやや大げさにため息をついた。肺に溜まった喜びの空気を全てはき出すかのような長いため息の後、再び携帯電話を閉じる。
 無機質な長方形のそれが何だか憎たらしかった。
 一回ため息をつくと、人間なかなか開き直ることができるものである。
 圏外ではもう役に立たない携帯電話をてぃっと投げると、それはやはり無機質な音をたてて転がったまま、沈黙した。
「文明の利器も役立たずだよ……」
 電波がないなら意味がないではないか。
 もう一度ため息をつき、凛華は何かないかと鞄に手を伸ばした。このあたり彼女は結構タフである。打ちのめされてばかりで立ち止まらないところが彼女の長所だ。

 今の彼女にあるものは、筆箱に数冊の教科書、ノート、下敷き、それとルーズリーフ。これは携帯電話と同様役に立ちそうにない。ただの勉強道具だ。いくらここが心地よくのびのびとできる場所だからと言って、さあ教科書を開いて勉強だ、という学生の鑑のような気分にはなれなかった。
 当たり前である。
 あとは、飴などの軽い菓子や財布や家の鍵。
 それに小さな柑橘系の香水瓶も入っていた。普段は全く使うことがないが、お守り代わりにずっと持っている。これは凛華のお気に入りだ。既に宝物と言っても間違いではない域にあるもの。銀色の瓶に入ったそれは亡くなった父親にもらった物だった。
 「まだ凛華には早いか」と朗らかに笑っていたその笑顔が、いつも凛華を元気づけてくれる。
 シュッと一回手首に吹き付け、その香りと父親の笑顔で落ち着いてから自分の黒い髪を梳く。
 凛華は今時の女子高生らしくなく、けばけばしい化粧をしない上に髪も染めていない。これもやはり亡くなった父親が「母さんにそっくりだ」と言ってくれたからだ。
 少々父親に影響され過ぎている気がしないでもないが、それでもいいのだ。
 父親にそう言って誉めてもらって以来、どれだけ仲の良い茶髪の友達に「染めてみたら?」と言われようとずっとこのままで。そのおかげで背中の中程まである長い黒髪はサラサラで真っ直ぐだった。痛んでもいないので、髪が綺麗だとよく誉めてもらえた。


 凛華はもう一度気持ちの良い草の絨毯じゅうたんに寝転がって、鞄にあった苺の飴を食べながら色々と考える。
 せっかく髪を梳いたのにまた寝転んでしまっては意味はないのだが、それは気にしないことにした。

 甘い飴の味が口の中から消えた頃に小さな声で「どうしようかな……」と呟いたのと。「ピィーーーっ」という高い鳥の鳴き声が彼女の耳に届いたのは、ほぼ同時だった。
 凛華がはっと上半身を起こして上空を見上げる。
 薄いフィルターのかかったような都会の空ではなく本当に大自然という言葉が似合う青い空に、白い影があった。
 小さな鳥が何か大きな鳥に襲われているようだ。動物社会の中では仕方のないことだが、見ていたくない。
 鳥を飼った経験はなかったけれどどうしようもなくその鳥を助けたくなってしまった。
 凛華は傍に転がっていた小石を拾い、「恨みがあるわけじゃないんだよ」と言い訳がましく呟いて、大きい方の鳥目掛けて思いきり投げつけた。
 奇跡的な確率で命中する。小石が命中した大きな鳥は一瞬怯んだ後、ばさばさと羽音をたてて逃げ去っていった。
 きっとまた別の獲物を探すのだろう。その現場を見たくはなかったが、まさかその鳥を追いかけて延々と石を投げ続けるわけにもいかず、ふぅ、と息をついてまた寝転がった。自分勝手だとは思うが、自分の視界外であれば食物連鎖が成立しても関与すべきではないと思った。


 悪いことをしたかなと少々後悔する凛華の前に、上空から何やら飛行物体。
 先ほどの白い鳥だった。
 うーんと難しげに唸って未だに気付かない彼女の注意を惹くかのようにぴいっとその鳥は鳴いた。
「あれ? 怪我でもしたの?」
 やっと白い小鳥に気付いた凛華が不思議に思って鳥に手を伸ばすと、その鳥は人に余程慣れているのか、彼女の首筋に擦り寄ってきた。
「わっ! ……懐かないでよ、こらこらー」
 懐いてきた小鳥の柔らかな毛がとてもくすぐったい。凛華は声を漏らしてくすくすと笑った。
 「懐かないで」と、彼女の言葉は怒っているようだが、それでも動物に懐かれるのは悪い気分ではない。
「あなた、お家は?」
 空に放そうと促しても、その小鳥は自分の傍を離れないので彼女は訊いてみた。ただの独り言だ。
 人間が鳥と話すことができるなんて、そんな夢のようなことは凛華は信じていない。
 ぴっという鳴き声と共に首を傾げ、鳥は否定を示したようだ。家はないのかもしれない。何故だかふとそう思い、再び口を開く。
「へえ、お家、ないの? ……うーん。『あなた』じゃ呼びにくいな……。ねえねえ、名前、勝手につけてもいーい?」
 またしても首を傾げる。
 今度は肯定。
 小鳥の考えなど分かる筈もないのだが、何となく今の凛華にはそれが分かった。
 本当に何故だろう。実は自分の前世は鳥だったのかもしれないと突飛なことを考え、その考えの馬鹿らしさに一人苦笑してから、彼女は小鳥をじっと見つめた。
 真っ白い体に、真っ黒い瞳。
 モノトーンのぱりっとした色彩が可愛らしい。
「んーと……じゃあ……ティオン。そう、ティオンっ」
 ふと頭に思い浮かんだのは、昔、凛華が母親に読んでもらった童話の王子様か何かの名前だった。
 童話の内容はどんなものだったか彼女は覚えていない。……母親の顔がはっきりとは思い出せなくなってしまったように、優しく読み聞かせてくれた童話の内容も忘れてしまった。
 ただこの時は思いついた名前を口にしただけなのだけれど。後から考えてみると、母親を忘れてしまいたくなかっただけだったのかもしれない。


 小鳥──もといティオンが、嬉しそうに凛華に擦り寄る。
 どうやら名前がお気に召したらしい。
 どうしてここまで鳥の考えが手に取るように分かるのだろう。だんだんとそんな疑問はどうでもよくなってきた凛華は、自分以外の生き物の頭をそっと撫でた。
「えーと……ティオンは元の場所に帰る方法なんて知らない……よね……」
 当事者である自分ですら全く分からないのである。それなのにその方法を今逢ったばかりの鳥に求めようとする方が間違いだ。
 「迷ったらその場を動かず助けを待て」という父親の言葉を思い出した。
 普通のサラリーマンだった父親は何かにつけ学者のような言葉を凛華に教えてくれた。
「お父さん……このままここに居て、助けって……来る……?」
 何だか来ないような気がする。
 不安げに言ったものの、取り敢えず凛華は父親の言葉を信じる事にして、んー、と一つ伸びをした。
 おおらかな性格が幸いしたのかこういう大変な事態にも柔軟だ。これがもしパニック体質の人間だとしたら、今頃は途方に暮れて困っていることだろう。いや、彼女も確かに困ってはいるのだ。急に見知らぬ場所にいたのだから困らない訳がない。ただ、緊張感が少しばかり足りないというだけのこと。
「うん、きっと何とかなるよねー」
 何てお気楽な私の頭、と苦笑してから凛華は目を閉じた。
 いくらこの一帯は真っ昼間とは言え、彼女がここに来る前の記憶は十九時頃だったのだから。連日のバイト疲れと今日の体育のハードな試合のおかげで、少し眠い。


 ティオンが凛華の首筋に擦り寄る。もう彼女はくすぐったいと文句は言わなかった。
 眠気は何にも勝るものである。
「起きたらきっと元の場所に戻ってるよ……」
 一つ小さくあくびをして、凛華は本格的に眠りに入ることにした。
 どんな場所でも落ち着くことさえできれば眠ることが出来る素敵な芸当を持っているのだ。これを利用しない手だてはない。



 木の葉を揺らすだけだった風が一瞬わずかに勢いを増す。その風にふわりと広がる凛華の黒髪と同様に、青と白の小さな花がサワサワと風に揺れた。
 まるで喜ぶかのように。

 彼女の到来を、待ち望んでいたかのように。